第1章:感性は「教わるもの」ではなく「出会うもの」
― 何を学んだかではなく、何に出会ってきたか ―
「演技って、どうすれば上手くなるんですか?」
声優を目指す人から、何度も聞いてきた質問だ。もちろん、答えられることはたくさんある。発声を整える。
滑舌を磨く。台本を読み解く。呼吸を使う。
相手の芝居を受けて反応する。マイクとの距離を覚える。技術には、ある程度はっきりした練習方法がある。
繰り返せば上達するものも多い。昨日できなかったことが、今日できるようになる。一か月前より安定して声が出る。何度も録音して聞き返せば、自分の癖にも気づける。技術は、努力との相性がいい。
技術だけでは説明できないもの
けれど、演技を聞いていて「この人の芝居はなぜか耳に残る」と感じる瞬間、その理由は技術だけでは説明できないことがある。同じ台詞を読んでいる。同じように声が出ている。
滑舌にも大きな差はない。それでも、一方の芝居には何かがある。言葉の奥に、その人が見ている景色がある。
誰かに向けて本当に言葉を投げているように聞こえる。ほんの短い間に、迷いや躊躇いや期待が混ざっている。そういう芝居に触れたとき、技術とは別のところにあるものを感じる。それを、この本では「感性」と呼んでいる。感性という言葉は、少し曖昧だ。
「センスがある」「才能がある」と同じような意味で使われることもある。でも、ここで言いたい感性は、生まれつき持っている特別な才能のことではない。何を見て、何を聞いて、何を感じ、何を記憶してきたか。
その積み重ねによって、その人の中にできていく“受け取り方”のようなものだ。だから感性は、誰かから答えを教わるようには身につかない。
「この場面では悲しく感じなさい」
「この言葉ではこういう気持ちになりなさい」
そう言われて、その通りに感じられるなら簡単だ。でも、人の心はそんなふうにはできていない。同じ映画を観ても、泣く人もいれば、泣かない人もいる。同じ言葉を聞いても、救われる人もいれば、傷つく人もいる。同じ場所へ行っても、何も感じない人もいれば、一生忘れない景色になる人もいる。その違いこそが、その人の表現になる。
感性は「何に出会ってきたか」で育つ
だから、感性について言えば、「何を学ぶか」よりも「何に出会ってきたか」で差が出る。ここでいう“出会い”は、人との出会いだけではない。作品との出会い。
音楽との出会い。本との出会い。景色との出会い。
仕事との出会い。失敗との出会い。自分とは違う価値観との出会い。
そして時には、自分自身の知らなかった一面との出会いでもある。演技のために特別な経験をしなければならない、という話ではない。むしろ逆だ。日常の中で起きていることを、ただ通り過ぎずに受け取れるかどうかが大きい。
いつも利用している店で、店員の声が少し沈んでいた。電車の中で、隣に座った人が何度も時計を見ていた。友人が「大丈夫」と言ったけれど、いつもより返事が少し早かった。帰り道の空が妙にきれいで、理由もなく立ち止まりたくなった。そういう小さな違和感や発見は、台本の中には書かれていない。
けれど、人間を演じるときに必要なのは、むしろそういう部分だったりする。台本には「悲しい」と一言だけ書かれていても、現実の悲しみ方は一つではない。泣く人もいる。
笑ってごまかす人もいる。何も言えなくなる人もいる。急に饒舌になる人もいる。
その幅を知っているかどうかは、演技の幅にもつながる。そして、その幅は説明だけでは増えない。人を見て、自分で感じるしかない。